青蓮寺は、天正3年(1575)桐生氏を滅ぼした由良成繁により現在地に建立された寺で、伝えによれば、新田郡岩松郷(現在の太田市尾島)にあった岩松青蓮寺を解体移築したものと言われていますが、青蓮寺の名前だけを持ってきたようです。(一部は移築として移されたかも知れないが詳細は不明。なお、青蓮寺の本堂の柱は安土桃山期の特徴を残すものであると言われており、移築よりはむしろ新築に近いものと想像されます。)
岩松青蓮寺は、新田家ゆかりの寺で、寺そのものが新田の正統を表すものであったと考えられます。
岩松青蓮寺は、新田義重の父源義国開基とされていますが、実際の開基は鎌倉時代末、6代後の子孫である岩松政経で弘安元年(1278)頃ではないかと言われています。
岩松青蓮寺縁起より抜粋:八幡太郎義家の3男、義国 後に仏門に帰し義国院と称す。その後新田義重の玄孫 岩松時兼、嘉禄2年岩松郷の地頭職に任せられ、その孫新田政経、岩松の館に住し義国の法灯を伝承し、岩松郷に一宇の伽藍を建立し、岩松山義国院青蓮寺という。建治年間(1275)僧一遍上人東国に法を弘むるの際 上人に帰依し、時宗に入る。……
国宝一遍聖絵には、一遍上人は弘安2年冬に信州佐久に、その後下野国小野寺(夕立の記述)、白河の関と順に描かれていて弘安3年(1280)に岩松の地を通過した可能性が高いので、岩松青蓮寺縁起の記述は、ほぼ正確ではないかと考えられる。)
新田郡岩松郷にあっては、長楽寺と並び立つ由緒寺院であった青蓮寺は、新田家、またその先祖である源氏の正統を示す寺として代々子孫に大切に守られてきたことが窺えます。
由良成繁の時代、既に新田氏も足利氏も衰退しており、由良成繁が「自分こそが源氏の、新田の正統である」と誇示するための寺でありました。そのためには、寺の名称は「青蓮寺」でなくてはならなかったのではないかとも推測されるのです。
その後、天正18年(1590)に豊臣秀吉の北条攻めがあり、関東武士として当然北条方に荷担した由良氏は、慶長3年(1598)、牛久へと国替えになり、その時点で青蓮寺は外護者を失い、放置されるに至ります。
その後青蓮寺は、由良氏の残された家臣の一部によりかろうじて保たれ、現在に至ります。牛久に国替えになった由良氏にとっては、もはや一族の象徴としての青蓮寺は意味をなさなくなったのでありましょう。
歴史のいたずらにより、桐生に時宗の寺院が開山され、歴史のいたずらでこの地に残された。そんなことをも今に伝える寺でもあります。
青蓮寺の沿革についてはWikipediaに投稿してあります。
往古の青蓮寺を今に伝える新田家代々
のお位牌。
江戸中期に作られたものです。
中央に新田義貞公の戒名があります。
新田義貞公は、福井県丸岡で討ち死に
し、胴体は憤死の地に葬られました。
そのお墓をお守りするために、時宗の寺
院(称念寺)が建立されています。
徳川家は新田家の流れを汲むもの?とし
て新田家にゆかりのある寺を大切に庇護
しましたので、当時は青蓮寺も新田義貞
公の菩提寺と称した方が都合がよかった
のでしょう。
桐生市青蓮寺は、歴史のいたずらに翻弄されました。数奇な運命をたどった青蓮寺の沿革をご紹介いたします。
遊行寺の朱雀門前にある大きなソテツには、毎年花が咲きます。雌花は赤く色づいた実をつけます。
この実を土の上に置いておくと芽を出しますが、発芽率はあまりよくありません。20%ぐらいでしょうか。
漆黒の本堂、静まりかえった中、火打ち石で新しい火が切り出されます
誰でも参拝できます。
このページは H19/12/15 更新