青蓮寺の欄間・須弥壇彫刻

青蓮寺の欄間彫刻

 青蓮寺は大変な貧乏寺でありました。これは明治まで続きます。そのためでしょう、寺には住職が不在の期間が多くあったようです。(無住寺)
 ある時などは、流行病のための隔離場所にもなっていたようです。ですから文書類はほとんど失われていて寺にはありません。
 そんな寺に不釣り合いとも言えるのが、欄間彫刻と総ケヤキ造須弥壇です。

 欄間の彫刻には『延享元歳(1744)甲子九月吉日 東上州 花輪村 彫物師 石原吟八郎義武 彫之』と銘文があります。内陣、下陣の内側にある彫刻類は同時期の作ではないかと考えられています。下陣外側にある菊水を模した欄間の彫刻はちょっと違う感じがしますが銘はありません。

 須弥壇には『武蔵国妻沼町大工 林 兵庫 門弟作 小林武助 内田清八 四月朔日丈八 今村勘六 内田惣助 源内 延享二乙丑天八月吉祥日当山十三世但阿良山代』と銘文があり、近在の一連の彫刻群の中でも古いものであります。共に大変素晴らしい彫刻で、驚かれる方が多いようです。

 さて、青蓮寺は檀家十五軒ほどの貧乏寺と「お前立ち」のページで書きましたが、ここで桐生の経済についてお話しします。

 お前立ちの阿弥陀様が青蓮寺に来られたのは、体内文書から享保8年(1723)の頃に間違いがありません。そのころは本当に貧乏寺であることに疑う余地はないようです。しかし、それからわずか二十年も経つと、今度は一度に欄間の彫刻と、「こんな須弥壇が日本にもあったのですか。」と修理の時に職人を驚かし、言わせた須弥壇の普請をやってしまいます。どう考えても、大改修間もない本堂をまたいじる。本堂一つ建てるぐらいの費用は必要なはずです。実はこの時、桐生は空前のバブル景気に湧いていたのです。機場(はたば)の経済は浮き沈みが激しいようです。これが今日まで桐生の気質になっているように思えてなりません。儲かったときにはとてつもないことをしてのけるが、バブルがはじけてしまえばそこで途切れてしまいます。
 そしてまたバブル。またそこでとてつもないことをしてと、継続性に乏しいのです。こんな一面が青蓮寺の彫刻群からも読みとれるようです。


青蓮寺の庫裏と本堂(青蓮寺の沿革)

青蓮寺の沿革

青蓮寺の本尊様

青蓮寺のお前立ち

青蓮寺の永代供養

青蓮寺の永代供養

青蓮寺の紹介に戻る

青蓮寺の本尊様が納められている大金庫

見事な龍の一木彫り

青蓮寺の須弥壇

青蓮寺の内陣・中央がお前立ちの阿弥陀様

青蓮寺の欄間・須弥壇彫刻

青蓮寺の欄間彫刻(外陣中央・龍の一木彫り)
下陣中央の龍
青蓮寺の欄間彫刻
下陣右側彫刻
青蓮寺の欄間彫刻
銘なし菊水の紋
青蓮寺の須弥壇
須弥壇の彫刻
青蓮寺の須弥壇
精緻な総彫り


                                                  ページのトップへ戻る


青蓮寺には、大変素晴らしい欄間彫刻が、また全国でもまれと賞される総欅造りの須弥壇があります。