桐生南無の会のぺージです

時宗 青蓮寺   南無の会は、一宗・一派にこだわらずに、仏教の教えを語る現代版辻説法の会です。
桐生南無の会   人が人として生きるための教えそれが仏教です。


  桐生南無の会28周年念講演会講演録


 「東日本大震災に被災して」
 
         ~被災地の想いを語る~

        講師:宮城県南三陸町
         すばらしい歌津をつくる協議会会長
 
                  小 野 寺  寛  氏
 

29周年記念記念講演会講演録「喜ばれる悦び」 
            講師:桐生災害ボランティアセンターセンター長 宮地由高 氏

27周年記念記念講演会講演録「無縁社会から有縁社会に回帰」  
                  講師:長寿院住職 篠原鋭一師

桐生仏教会100周年・桐生南無の会26周年記念記念講演会講演録
    
「南無そのまんま」  講師:宗教学者・仏教評論家 ひろさちや先生

25周年記念記念講演会講演録「心に高き帆を」 
                           講師:長徳寺住職 酒井大岳師

24周年記念記念講演会講演録「捨て聖一遍上人~その人と教え~」 
           講師:時宗宗学林学頭、飯能市金蓮寺住職 長島尚道師 

23周年記念講演会講演録「生かされて生きる」 
                           講師:重恩寺住職 吉田正彰師


桐生南無の会 会長として掲載した文章 当山住職(本間光雄)の文章

略歴
昭和23年宮城県本吉郡歌津町(現南三陸町)に生まれる
日本大学法学部政治経済学科卒業(通信教育)
昭和44年9月歌津町役場に奉職
平成の森管理事務所長、水道課長、水産農林課長、総務課長、南三陸町歌津総合支所長等歴任
平成18年12月退職
平成20年4月よりすばらしい歌津をつくる協議会会長に就任
現在に至る

 昨年3月11日に発生した東日本大震災に伴う巨大津波により南三陸町は被災しました。多くの尊い命を失い、いまだ行方不明の方は280人もいらっしゃいます。
 今回お招きした小野寺氏は、桐生仏教会の被災物故者慰霊法要に際して歌津地区の窓口としてご尽力頂いています。
『東日本大震災に被災して』 ~被災地の想いを語る~ 講演録 
 
 7月4日掲載文
  6月4日、浄運寺の本堂には沢山の方がお越し下さり、関心の高さを感じました。有り難いことと感謝申し上げます。
 なお、会場で皆様に義援金をお願いしましたところ71,739円もの浄財が寄せられました。有り難うございます、衷心よりお礼申し上げます。
----ーーーー---講演の始まりです-ーーーー-----
 皆さん今晩は。南三陸町のすばらしい歌津をつくる協議会の小野寺寛と申します。まず皆さん方にこの度の東日本大震災に於いては、桐生市のボランティア協議会の皆さんを初め、今日お集まりの皆さんに物心両面からご支援をいただきましたことを心からお礼申し上げます。
 皆さんに背中を押されるように、なんとか1年3ヶ月になろうとしています。日に日に、その震災の傷跡が、今までは目に見える形で影響がここにもあそこにもあったのですが、最近は目に見えないところで被害の重さというものが、一人一人の被災者の心の中に重なってきている、そういう状況であります。
 今、私共の被災地では、安全なところに住もうと決めたのですが、さてどの集落にみんなで移るのか、その場所を選定したり、一体何人が行くのかということを最大のテーマにして悩んでいるところです。
 今回の震災では、皆大事な家族を失ったり、友人を失っています。家族は行方不明の方が見つかるまではお葬式をしない、出来ないんだという思いでいたのですが、1年が過ぎて、そしてどこかでけじめを付けないと前に進めないということで、一番最後にお葬式をした方が今年の4月29日でした。
 何を証拠に我が夫が、あるいは我が家族が。亡くなったということを確認することが出来ないままに、一つの遺品も見つからない中でどうしてお葬式が出せるのだとという思いで、多くの犠牲者は泣く泣く一つのけじめを付けたくはなかったというのが、実際の私共の所で起きていることです。
 
 8月4日号掲載文
 南三陸町の歌津(うたつ)という所は、仙台から沿岸部を北へ百キロ程、気仙沼市の隣です。南隣が石巻市、西の隣が登米市、三市に挟まれた小さな17,666名が震災前の人口の南三陸町です。5,363世帯でした。
 平成17年の10月1日に歌津町と志津川町が合併をして南三陸町になりました。合併後、南三陸町ってどこにあるのだ。全国にどの様にピーアールすればよいのだ。皮肉にもこの東日本大震災で、世界の南三陸町になってしまいました。
 歌津と言う地名はアイヌ語でオタエツ、白い砂浜がある場所という意味。それから、田束山(たつがねさん)から卯辰(ウ・タツ)の方向に開けた村、東南東に開けた村がウタツという二つの説があります。
 本吉郡とは、モトウッシュ、沼地の場所と言う意味です。防災庁舎があった場所がまさしくその沼地の真ん中です。そこを埋め立てして開いたのが志津川の市街地です。
 そういう歴史的な地形の中にあるのだと言うところに学んだ町作りをリーダー達が実は怠ってきたということだと思います。
 5メートル50の護岸が、金をかけた水門が守ってくれると皆思っていました。予報で志津川で6メートル50、歌津で6メートル90。南三陸町の町長は、最初6メートルの津波と予想されましたので、6メートル引く5メートル50は50センチ。その感覚でした。
 私たちは、津波の前に地震があるでしょ。地震で護岸が崩れたり、水門が閉まらなくなる場合だってある、それを想定外と言って切り捨てられますか。護岸とか水門は無いものとした防災対策をすべきだと話しましたが、耳を貸さなかった。非常に残念であります。
 
 9月4日号掲載文
 先ほどのDVDの場所が伊里前(いさとまえ)、これも変わった名前でアイヌ語であります。鯨が集まる場所という意味であります。イリマエではありません。
 伊里前の小学校の校庭に4月27日、天皇皇后両陛下がヘリコプターでお着きになり、お二人そろって深々と太平洋に向かって、犠牲者の魂に向かって頭を下げられました。そして中学校の避難所に行かれて、一人一人に声をかけられ、お帰りになる時、ヘリコプターに乗られる直前に同じように深々と頭を下げられました。
 あのお姿に被災者は涙を流して、本当に癒された思いの両陛下でありました。
 気仙沼を皆さんご存じですよね。気仙沼も実はアイヌ語でケセモイ、南の端の入り江という意味です。私たちのところから岩手にかけてアイヌ語が多く残っているということです。関東でも沢山残っているとのことです。(中略)
 今回の震災の後に大勢の方が支援の視察に参ります。その際に旅行会社に提案する行程は、新幹線で一関まで来て、そこでバスをチャーターし、平泉をご覧いただいた後に沿岸部に出て、気仙沼から南三陸町にかけての被災地を見、そして観洋に泊まって仙台に出て帰る、という一泊二日のコースです。ただ悲惨な被災地を見るのではなく、是非世界の歴史を変えた平泉・黄金文化、被災直後の6月に世界遺産に登録された、その歴史を学んで、さらにそれを支えた被災地を見て、いずれ復興するであろう私たちの地域を、どの様に復興するのかを、見た皆さん方に是非支援をして頂きたい。そんな思いで支援ツアーのコースを提案しています。
 この8日には、桐生市の交通安全協会の方々もこのコースでおいでになるそうです。
 
 10月4日掲載文
  三菱商事の職員研修の一環として毎月ボランティアに来ています。彼らは何をしているかというと、瓦礫が、小さい鍵だったり布くずであったり、いろんなものが宅地の中に、あるいは農地の中に残っています。それを一つ一つヘラの様なもので探して帰るのです。
 一人の被災者とも言葉を交わさないのです。誰の土地なのか、そして、やっていただいた方もやった方も、有り難うの一つもなく帰られる。果たしてそれで満足するのだろうか。
 「満足しているの?」と聞いたら「申し訳ないけれども満足する気にはなれない。」
 私は「でしょ」っと。やはり、被災した人が、遠くからわざわざおいでになった方に一言御礼が言いたい。そして、言葉を交わすことだけでも気が楽になる。そういう人が、人によってしか癒されないと思います。
 ですから、そういう機会を作る様にしたいと思い、私の方を通してくるボランティアの方々には、出来るだけ仮設や浜、農家を案内したりして、直接被災者の方とつらさを、大変さを、これからどうしようかという不安の状態を、是非自分の目で、耳で体験して欲しいと思っています。今後もそのように受け入れていきたいと思っています。
 南三陸町の産業は海が中心です。家族ぐるみで働いているのが私たちの地域です。約四百億の町民生産と言われていました。その内、歌津地区は約百億です。ところが今は果たしてその何分の一になっているのか。全然統計的にも取ることができない状態です。
 一日も早く、元には戻らないけれども、新しい地域を作っていきたい、いかなければならない。そう思っています。
 私たちの地域は津波の歴史でもあります。
 
 11月4日掲載文
 弥生時代から千年おきに来て、今回が3回目だと言われていますが、実はもっと多いかも知れません。日本の歴史を紐解くと、弥生時代に米が入ってきて。米というものは水と平場を必要とします。つまり、それを求めてどんどん海の方に陸地を拡げていった歴史だと言う人がいました。
 今回の震災で、海の方に拡げていった土地が、海に浸食されてまた少しずつ岡の方に戻っていって、そして、狭い面積の中で暮らすような、ターニングポイント、つまり原始に変わる時なのかと言っていました。
 これから人口が減ってきます、今まで1億3千万人の中で管理してきた土地が、5千万人になるとしたら、そんなに広い面積を管理できますか?南三陸町1万8千の人口が1万3千になった時に、今までと同じ面積を管理できますか。だったらば、海になってしまった所は、海に戻した方が良いのではないか。今、そんな議論をしているところです。
 で、弥生時代にも、今回と同じぐらいのがありました。そして貞観11年、平安時代にもありました。江戸時代には、それより下回りますが。明治の29年にも、歌津地区だけでも799人、昭和8年には86人、チリ地震津波では志津川地区だけでも41人という、津波の歴史であります。
 津波とどう向き合いながら、海を生活の舞台として、今までも生きてきたし、これからも生きて行かざるを得ないと言うところを、覚悟の中で生きて行かざるを得ないのが私達の地域です。
 更に、三陸沖を震源とする津波だけでも大変なのに、地球の裏側からも来ます。南米を震源とする、チリ地震津波が来ます。それも、分かっているだけで7~8回。昔は、科学的な、地球の裏側の事など連絡のしようもないので、一晩のうちに村が無くなったとか、神隠しにあったとか、そういう風に言われてきたのです。所が最近、向こうの地震の歴史をたどっていくのと、こちらでの記録が符合するのです。

12月4日号掲載文
 昔から、南米からの地震津波があったと言う事です。地震もないのに津波が来た、と言うのがそれなのです。そういう場所に私達は住んでいるので、その覚悟の中でこれからも生活をしてゆかねばならない。
 今回は、人が作ったものでは津波は防げない、という事を体験したのです。だけれどもまだ、今やっている事は、国が示したのは、今まで5メートル50の護岸を、今度は8メートル70とか11メートルにする計画が出ているのです。
 果たしてそのことが良いのか悪いのか。浜によっては海が減になるから要らない、不便になるから要らない。いや、それで防いでくれ。賛否両論です。これから具体的に、本当に地域のためになるのは、護岸を高くした方がよいのか。あるいは、そうではなくて、安全な高台で良いのではないか。様々な議論が起きています。これから益々そのことが大きな声で議論させると思います。
 そのことも、漁師達と相談をしながらという話にはならない。ある時ポット出てきて、それが実行されてゆくという雰囲気です。
 ところが、最近のニュースでは、護岸を作るにしても、工事をするにしてもセメントが足りない、砂利が足りない、という事が新聞に出ています。学者達は前からその話をしていました。 果たして、その計画がどうなるのだろう。まずもって5メートル50に、元に戻す復旧工事をすると言っていました。そこで終わってしまうのではないかとも思わされます。
 当日、3月11日の2時46分、私の住むところから約8キロ程離れた、歌津地域の半島のオタエツという白い砂浜がある集落に子どもを訪ねて、文化祭の話をしに行って、……
 
 2月4日号掲載文
 「今日は」と、玄関に入ったとたんにあの地震でした。これは津波が来るなと直感しましたので、じゃまた来るからという事で中を覗いていたら、爺ちゃんと孫の手を引いて「津波が来るぞ!」と声を荒げて、挨拶もしないで直ぐに後ろの山に避難してゆきました。
 私の乗っていった軽トラがボールのようにボンボン弾んで、飛び乗って直ぐに帰ろうとしたけれどもとても近づけない。地震が収まるのを待って、そのうちに隣の家との間の塀が倒れ来る、幸い屋根から落ちてこなかったので、沿岸部を、約8キロの道を、左側に海を見て、海岸沿いの道路を津波が来たらどこに逃げるかと思いながら我が家にたどり着きました。
 そして着いたのが3時15分、ですので途中で津波に遭わなかったのです。我が家に帰ったら12月に生まれたばかりの孫と、嫁と、女房と三人で外で震えていました。
 余震が続くし、中に居れば危険だ、外にいてもおっかないという事です。でも私が帰ったので落ち着きを取り戻して、とにかく家族三人で安全な所に居ろと。
 私は集落でもう炊き出しが始まるだろうと、4時には集会所に駆けつけました。そうしたら我が集落は山間部ですから、津波の時には避難所に炊き出しをするとかねてより申し合わせをしてあったので、ご飯を炊いて持ってくる人、梅干しを持ってくる人、海苔を持ってくる人、そしてその日の4時から始まったのです。
 5時過ぎに中学校の方におにぎりを。一番最初の日は700個ぐらいを。とにかく余震があるので、ガスというのは便利すぎてセンサーがあって止まってしまうのです。
 
 3月4日号掲載文
 ガスが止まると、芯があるご飯になってしまう。これではご飯が炊けないということで、センサーをはずして、そしてボンベに直結して、余震が来てもガスが止まらないようにしてご飯を炊きました。
 次の日は三升炊きのガス釜2つで、一回六升ずつ炊けます、これで13回炊きました。炊いたら直ぐ研いで炊く、この繰り返しです。外には役場の職員が来て待っているのです。「何人か?」「700人待っている。」おにぎり、一升がだいたい18個か20個位になります。最初はそれぐらいの大きさでやったのです。ところが、後で聞いてみると700人の所に500個やったとしますね。あと200個足りない、そうすると職員は、ケンカになるから配れない。
 700個になるまで止めておきます。これはまずいということで、ちょっと小さくして数を増やして、とにかく人数に足りるような数ににぎれと。そういうことで4日間私達の集落では、おにぎりとか豚汁とかタラ汁とか。
 よそから入って来たのは、2日目には山を越えてパンと水が入ってきた。ところが数が足らなくて、配れなかったと役場の職員が言っていました。それで、パンでも良いという人と、おにぎりの人、希望をとっておにぎりとパンを組み合わせて配りました。
 本格的によそから入って来たのは 、アメリカの船で沖に着けてくれたヘリコプターで持って来たのが5日目でした。自衛隊が本格的な炊き出しに入ったのが19日でした。桐生の方々がおいでになったのは3月下旬です。アメリカや国内でも民間の方が来るのがいかに早かったかと言うことです。
 役場の職員が正式に私達の集落に調査に来たのが3月19日です。一週間過ぎていました。
 
 4月4日号掲載文 
 つまり、役場も壊滅状態で、無政府状態。皮肉なことに、ある学者が来て「南三陸町さんは役場がなくなったのでどのようにして0から役場を立ち上げていったのかが非常に参考になるから、それをちゃんと書き留めておいてくれ」そんなことを、おかしなところで先生というものは・・・。そういうような状況で、いかに同じ町内でも、津波・沿岸部の災害の時には山間部の人たちが支える。山間部で災害があったなら沿岸部の人が支えるという、地域の中でお互い助け合える状態を平常時にいかに作っておくかということが大事だと思っています。
 この桐生でも、渡良瀬川の川沿いに集団が密集しています。水害というものが歴史的にもだいぶあったと聞いています。そういう時に桐生市内の誰が河川上にある方々を助けるのか、あるいは赤城山の方で山火事があった時に誰が助けるの、避難所としてどこを使うのと、そういうものを平常時に想定して、そして最悪の状態になった時に誰がどうするのかということを具体的に検討しておかないと、いざという時には何の役にも立たないと言うことです。
 お陰様で・・・、今年よかった。海が津波で若返ったのです。だから海産物あるいは魚もいっぱい捕れるのです。わかめの質も量も良かったのです。いつもの半分ぐらいしか養殖しなかったから、価格がいつもの二倍です。
 タカ(山間部のこと)の人たちにお世話になったからと、わかめを持って一軒一軒配って歩いていました。「お陰様で」って言って。
 今は震災直後だから感謝の気持ちがあります。これが5年後、10年後、100年後どうなるか分からないと言うところですよね。
 ですから、いかに災害というものを想定した地域作りを平常時にしておくかということが、正直最悪の状況になった時に、いかに役に立つのかがお分かりいただけると思います。
 桐生の方々が、私たちの方まで何度もおいでになった先進地でありますから、もう既に出来ていると思いますが、それ以外の地域にも是非広めていただきたいことです。・・・・・・
 
 この続きは録音でお聞きいただけます。お聞きになりたい方は連絡してください。
 
平成24年6月4日記念講演会当日、会場配布用パンフレットより。
大震災犠牲者の供養 桐生南無の会 会長 本間 光雄
 昨年3月11日午後2時46分、私は藤澤市からの帰宅を急ぐ中、足利市小俣で異常な揺れを感じました。ちょうど赤信号で止まったとたんでした。 目の前の電柱が激しく揺れ、大きくしなり、折れてしまうのではないかと恐怖を覚えたことを昨日の出来事のように思い出します。それからのことは皆さんよくご存じの通りであります。
 この大震災で犠牲になられた方は、行方不明者を含めると2万人近くになります。まさしく、私たちの想像すら及ばない、とてつもない大災害であります。
 桐生仏教会では、百ヶ日法要、一周忌法要を南三陸町と、岩沼市で営ませていただきました。桐生災害支援ボランティアセンター(センター長宮地由高氏)の炊き出しや泥かきボランティアのご縁により、私たちの思いを快く受けていただく事が出来たのです。
 南三陸町の窓口になって下さったのが、今回お招きした、すばらしい歌津をつくる協議会長小野寺寛氏であります。
 去る3月11日、一周忌の供養におうかがいした時、私は南三陸町の伊里前小学校の校庭の砂、津龍院・西光寺の境内の小石や小さな瓦礫片を、岩沼市の恵洪寺境内の小石を持ち帰り、小さな舎利容器に収め毎朝お線香を供えお参りしています。
 私は来年2月、インドのお釈迦様縁の地である仏跡を参拝する旅を計画しています。その時、訪れる聖地に散骨のつもりで納めて来ようと考えています。私にとって、今回の仏跡参拝は慰霊の旅でもあります。
 犠牲となられた方々とともにインドの仏跡を旅し、ご供養をさせていただくのです。私に出来る、せめてもの供養であります。こんな供養があっても良いのかなと考えてのことです。
 供養と合わせて考えなくてはならないのが、残された方の精神的支えであります。頑張れと言うのではなく、悲しみや悩みを共有しようとする姿勢が求められていると感じるのです。
 今日なお『ガンバレ』、もう止めにしませんか。被災された方々は、出口の見えない中で、懸命に過ごされてきています。既に、身も心も疲れ果てていることでしょう。「これ以上何を頑張ればよいのだ」悲鳴のような声が聞こえてくるようでなりません。
 大丈夫、私たちがついている。そんな気持ちを出来るだけ多くの方に持っていただきたいのです。
 小野寺さんの想い、そこから何が私たちに出来るのかを皆で考えようじゃありませんか。必要とされるものは、常に変化しています。ニュースなどで知らされているものと、だいぶ違っている部分があるように思えてなりません。被災地に寄り添い見守る心、少しでもお役に立てますように。
 桐生南無の会は、設立以来会費も会則もありません。毎月4日(原則)に例会を開催し、誰でも自由に参加できることを信条としています。都合の付く時だけ、ぶらりと会場へ足を運んで頂き、お茶代として500円を喜捨頂くだけで結構です。それが私達の活動を支える何よりの励みになります。
 桐生の地で宗派を越えたこのような会が開催できますことは、桐生仏教会の先輩達が築き上げて下さった素晴らしい伝統があってこそです。
 桐生仏教会については、公式ホームページがあります、もし興味がありましたら『桐生仏教会』で検索してください。『積善・桐生のお寺』もホームページ版がご覧頂けます、本を片手に市内の寺巡りをされるのも、楽しいことではないでしょうか。
 今後とも、桐生仏教会・桐生仏教会青年部、桐生南無の会の活動に対しまして、皆様の一層のご理解とご協力を切にお願い申し上げます。